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若い方々にとって、十字架はロマンチックでエキゾチックな、身を飾るアクセサリーです。しかし昔の十字架は、最も厳しくおぞましい、究極の死刑の方法でした。聖書にも「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(ガラテヤ人への手紙3:13)と書いてあるように、「呪いの十字架」だったのです。私の家の近くに「宗吾霊堂」という所がありますが、今から350年ほど前、佐倉の名主で、名字帯刀も許された佐倉宗吾郎が、佐倉藩の重税に苦しむ民を救うため、将軍に直訴、願いは実現されたものの、封建時代のおきてにより、宗吾郎は、はりつけ刑に処せられて死にます。彼は、はりつけ柱(十字架)の上から、「七たび生まれ変わって、お前たちを呪い殺してやる」と叫びながら死んだと言われています。民を助ける正しい行いをしながら、おきてと呪いにかけられて死にました。彼にとってそのはりつけ柱は、「呪いの十字架」でした。
イエス・キリストが十字架につけられた時、そのそばに立っていた政治家、宗教家、軍人たち、それに道行く人々まで、「お前が神の子なら、十字架から飛び降りて自分を救え。人を救って自分が救えないのか。十字架から降りて自分を救ってみよ。そうしたら信じてやろう」と口汚くののしりました。
イエス・キリストは、十字架から飛び降りて、神に背くすべての罪人を裁いて、黄泉に送ることもできた神の御子でした。しかし彼は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27:46)と、絶体絶命の苦しみの中からも、最後まで十字架から降りようとされずに、十字架の呪い、罪の裁きをその身に受け取り、罪の呪い、裁きの呪いから私たちを救ってくださったのです。
イエス・キリストは、静かに最後に言われました。「完了した」(ヨハネの福音書19:30)
イエス・キリストの十字架の死と復活の証人であるペテロの言葉です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見い出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれるお方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(ペテロの手紙第一2:22-24)
私たちを罪と裁きの呪いから救い出してくださった、それが十字架なのです。
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