「イエスは涙を流された」
「イエスは涙を流された」(ヨハネの福音書11:35)これはおそらく聖書の中で一番短い節で、たった二語です。しかし奇妙に強く私の心の琴線を打つのです。これほど端的に強烈にイエス・キリストが神でありながら、完全な人間となられた事実をさしている言葉はないでしょう。全知全能、全権をもってすべてを支配し、所有される創造主なる神が、身をかがめ、人間となって世にくだられた。それゆえに、罪のない唯一の御方として、私たち罪人の過去・現在・未来、すべての罪の身代わりを、その十字架の死でなしとげ、私たちを完全に救い得るのです。(ヘブル人への手紙9:12)
イエスが涙を流されたのは、愛するラザロが死んで墓に納められて四日、死体がもう臭くなっている、その墓の前ででした。
私は一生懸命、なぜイエスが涙を流されたのかを考え、三つのことに思い至りました。
1.愛の涙
やはりイエスは、涙を流さずにおられないほど、個人的にラザロを愛していらした。そしてこの私をも個人的に愛してくださると思うと、心がいっぱいになるのです。
2.祈りの涙
イエスがゲッセマネの園で祈られた時、愛する父なる神にさばかれ捨てられる十字架を前にして、つらい祈りをなさいました。血の汗が流れました。しかし、私たち人類を愛してその救いを願い、涙を流してとりなしてくださったのです。聖書はその涙の祈りが聞かれて救いの道が開けたと書いてあります。(ヘブル人への手紙5:7)
私のために涙の祈りをしてくださったイエス。私も友のため涙の祈りをする人のなりたいです。
3.心を溶かす涙
イエスが涙を流されるのを見て、多くのユダヤ人が心溶かされ、神を、イエス・キリストを信じました。叩いたり突っつけば、タニシもアサリも殻を閉ざします。人間だって同じ。私のかたい頑固な憎しみいっぱいの心も、私に福音を語ってくださった老婦人宣教師の大きな目からポタリポタリ流れ落ちてやまなかった涙を見た時、溶かされて開きました。心にイエス・キリストをお迎えしたその晩から、私と家族は変わりはじめたのです。
「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブル人への手紙4:15-16)
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