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みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(ペテロの手紙第一5:6)
聖オーガスチンに「先生、人間にとって一番大切な徳はなんですか」と質問しますと、「謙遜です」「第二は」「謙遜です」「第三は」「謙遜です」と答えたという有名な話があります。いったい聖書の教える謙遜とはどんなことなのでしょうか。
悔いた砕けた心
まず第一に聖書の言う謙遜と、悔いた砕けた心との関係について考えてみましょう。
世の中には謙遜に見えて、ほんとうは謙遜でないものがあります。頭はペコペコ下げ、言葉遣いはていねいで謙遜の限りをつくしていますが、心の中には、人を人とも思わない心、自分をかばう心などが鎮座ましましているんですね。
預言者サムエルから自分の罪を指摘されたイスラエルの王サウルは、いろいろ言い訳を並べつつも、とうとう「私は罪を犯しました」と認め、サムエルの前に頭を下げました。しかしサウル王はこう言ったのです。「サムエル先生。これは先生と私だけのことにしておいてください。民たちに知られたくないのです。」謙遜な態度、謙遜な言葉遣いでした。しかし本当の謙遜ではなかったのです。神さまの恵みから迷い出して狂い死んだサウル王の末路は哀れでした。
一方、預言者ナタンに自らの罪を指摘されたダビデ王は、まったく違いました。初めは、隠しだてをしました。しかし、彼は悔い改めたのです。ナタンの前に、神さまの前に、民たちの前に、全部をさらけ出して、罪を認め、罪を告白し、神さまと民との前に憐れみを乞いました。実に彼の心は粉々に砕けた、「悔いた砕けた心」となったのです。その時、神さまの恵みは、大滝のように彼に注がれたのです。赦し、愛、潔め、平安、喜び。彼はまさしく神さまによって新しい人に造りかえられたのです。
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