祈る(1)神のみ心とチューニング

 ギリシャの学者ストラボーは、世界中を旅行し見聞した末、こう言いました。
「世界中、どこへ行っても、人は祈ろうとしている。」
 誰の心にも祈り心がありますね。不況を反映して、日本最大の初詣での名所でも、お賽銭の上がりは人出とは反比例するようですが。聖書も、「第一に勧める。祈れ」と言い、「絶えず、祈りなさい」と、やはり祈りを協調しています。しかし、聖書はまた、正しい祈りとは何かを教えているのです。
 佐世保に講演会に行った時、ひとりの米水兵のクリスチャンにこういう質問を受けました。「祈るってことは、神さまに私たちの言うことをきかせることですか?」
 ギクッとしました。言われてみると、私たちの祈りは「どうか、どうか」と神さまに注文ばかりしている祈りです。何がなんでも自分の願いを神さまにきかせてやる、そんな祈りではないでしょうか。
 祈りとは、神さまに言うことをきかせることではなく、神さまの清く、愛深く、賢いみ心に、私たちの心をチューニングすることなのです。祈りの中に、神の前に座り込んで、神のみ心にかなわない貪欲も憎しみも野心もみんな洗い流されて、いつしか神さまのみ心が自分の心となり、自分の心が神のみ心とハーモニーしている、それが祈りであるべきです。
 神さまは、あなたが「どうか」と祈らない先から、あなたの財布が空っぽのこと、あなたの病いが重いこと、あなたになぐさめと平安が必要なこと、あなたに力と励ましがいることを先刻ご承知です。
「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うからです」
(ヤコブの手紙4章3節)
 祈るとは、神のみ心に、あなたのこころをチューニングすることなのです。