新しい創造が必要

 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネの福音書2:23〜25)
 イエス・キリストは、早くも人気の頂点に立ちました。ものすごい人気です。ファンの群れです。信者の大群衆です。もしイエスが、いわゆる「教祖」であったなら、たちまち「メシヤ教」などといって一旗挙げ、そして偉くなり、儲けたでしょう。弟子のひとり、ペテロも、イエスがこの地上で一旗挙げて神の国を築くことを期待しました。しかしイエスは、そんなペテロを「サタンよ、下がれ」と叱責されたのです。
(マタイの福音書16:23)
イエスは、群衆が、イエスの奇跡を見て一時的に感激してついてくるだけだと知っていました。熱しやすくさめやすいことが分かっていました。病気を治してもらえたり、貧乏を助けてもらえたりするのでついてくるのも分かっていました。犠牲や、奉仕や、苦しみのチャレンジを受けるなら、いつのまにか去ってゆく人々であることを見抜いておられました。悲しく辛いことです。しかし、事実、私たちはみんな、そのように卑劣で、弱く、醜いものではないでしょうか。だからこそ、説教の感激、奇跡を見ての感激だけではダメ、イエス・キリストは十字架の死によって人々の罪をあがない、一方的な神の愛、よみがえりの神の力をもって、人を救い、根本から造りかえようとなさるのです。
大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ人への手紙6:15)