目標に向かって走ろう

 私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。(コリント人への手紙第一9:26)

 うさぎの運動会を見たことがあります。おとぎ話の中では、うさぎは優秀なランナーのはずですが、出場したうさぎが、みんなてんでんばらばらの方向に走り出したのには、腹を抱えて笑いました。しかし私たち人間に、うさぎを笑う資格があるでしょうか。人間の抱えている最大の問題は、「何のために生きるのか」人生の目標を知らないということです。
受験生は、入試という目標を持っています。サラリーマンは、今日しなければならない仕事の目標は知っています。しかし人生の究極の目標、生きる目標を知らないのです。

 アメリカで最も優秀な大学を驚くべき成績で卒業した若者に、ある雑誌記者がインタビューしました。
「将来、どうなさいますか?」
「幸い一流企業に入りましたから、早く出世して、高給取りになりますよ」
「それから?」
「美しい女性と結婚して、立派な家でも建てますかね」
「それから?」
「あんまり年とってまで働かず、適当なところで引退して、世界旅行や釣りを楽しみます」
「それから?」
「うるさいなあ。たぶん、死ぬんだろうよ」

 ある人々は「人間なんて、食っちゃ寝食っちゃ寝、そして死んでいく。目的なんてあるものか」と言います。ある人々は「人生の目的、それは死んでみなけりゃわからない」と言います。またある人々は「一日一日生きていく、それが人生さ」と言います。しかし伝道者パウロには、決勝点、栄光に満ちた目標がはっきりと見えていました。

「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」(コリント人への手紙第一 9:26)

 彼はあらゆる苦難の中でも、まっすぐに、希望に満ちた生きがいのある人生を送っていたのです。
私も16歳の頃は「我に神なし仏なし秋の暮」といった虚しい心境の、人生の目的を見い出すことのできない寂しい少年でした。しかし神を----イエス・キリストを----見い出した時に、私にもはっきり「人生の決勝点」「人生の目標」が見えだしたのです。それは人生の革命でした。
 考えてみてください。私の腕にあるこの時計。安物ですが、27個の小さな宝石のかけらが大切な軸受けとしてはめ込まれています。この宝石が時計からころげだし、暗闇とほこりの中に迷いこんでしまったなら、それがどんなに立派なものでも「無意味」です。しかし、時計の中のあるべき場所にある時には、なんとすばらしい役目があるでしょう。私たちは、小さく弱くくだらないもののように見えても、神様が生命を吹き込み、世界にたったひとつだけの、自由で独立した魂として、お造りになられたのです。ひとりひとりが、その神の愛のふところに戻るとき、自分でなければならない、神を喜ばせ神を喜び、人を喜ばせ人を喜ぶ、人生の目的がはっきりわかるのです。

 決勝点ははるかかなたです。がんばって忍耐強く走り続けることが大切です。そのためには、まず第一のものを第一に、目的のために要らないものを切り捨てることです。兵隊として出陣する時に、テレビやゴルフ道具を一緒に持っていく人はいません。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイの福音書6:33)
 次に、規則通りに走ることです。陸上競技では、トラックを横切ってゴールに走っていけば、一番早くゴールに着くことはできるでしょう。しかし、それではだめなのです。人生の目標に向かって走るのに、近道や抜け道はありません。罪をきよめられ、神のコースに従って正しく走らなければなりません。
「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」
(テモテへの手紙第二2:5)
 そして、忘れないでください。イエス様はいつも一緒に走ってくださっているのです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」
(マタイの福音書28:20)